国際叡愛総合芸術大学 都市環境学部 教授の三宅 浩です。
つい先日、生活科学部の清水 潔准教授が大変興味深い記事を投稿されていましたね。
どうやら、キャンパスのカエルたちを「音の汚れ」と断罪し、さらには同僚の研究室まで「特級汚染区域」と呼んで、徹底的な清掃を画策されているご様子。
拝読させていただきましたが、正直なところ、看過できない浅はかな認識、そして住環境の本質を見誤った発想に、私は強い危機感を覚えました。家は城、住環境は人生の基盤。その大原則を理解せずして、生活科学を語るとは、一体どういう了見なのでしょうか。
清水先生の「汚れ」に対する異常なまでの執着は、ある意味で清掃のプロフェッショナルとしての情熱の表れかもしれません。しかし、その情熱が、私たちを取り巻く豊かな環境や多様な生活様式を「汚れ」として排除しようとするならば、それはもはや、生活を豊かにするどころか、生活そのものを貧しくする行為に他なりません。
私の専門は、引越し見積もり、賃貸情報サイト、インターネット回線、家具レンタルといった「住」に関するあらゆる側面です。不動産鑑定士の資格も持ち、間取り図を見るのが趣味というほど、住環境には人一倍こだわりを持っています。そんな私の目から見れば、清水先生の主張は、あまりにも短絡的で、そして現実的ではないと言わざるを得ません。
今回は、清水先生のブログ記事を引用しながら、私の専門分野である都市環境学、そして「住」のプロとしての視点から、一つずつ丁寧に、そして徹底的に「反論(アンサーソング)」をさせていただきましょう。
「蛙合唱事変」は「騒音公害」か?豊かな住環境は「音」を包容する
清水先生は冒頭で、キャンパス内のカエルの鳴き声を「カエルの大合唱」と表現し、これを「騒音公害」と断罪していますね。
「自然との共生」?「豊かな生態系」? 甘いですね。あれは、もはや「騒音公害」と断罪すべき「音の汚れ」です。朝も昼も夜も、ゲコゲコ、グエッグエッと、まるで学園祭の準備でスピーカーの音量調整を誤ったかのような不協和音。集中力を削り、心の平穏を奪い去る。これは立派な「環境汚染」ですよ。
確かに、都市生活において「騒音」は深刻な問題です。しかし、自然の音と人工的な騒音を同列に語るのは、いささか強引ですね。もし本当にカエルの鳴き声が集中力を阻害するほどの問題であれば、考えるべきは「カエルを排除する」ことではなく、「音が気にならないような住環境を整える」ことです。
清水先生は「超音波洗浄機でも導入して、この音波を打ち消せないかと真剣に検討しています」とおっしゃいますが、これは現実的な解決策ではありません。音波を音波で打ち消すなど、その技術的な実現可能性もさることながら、その「打ち消しの音」自体が新たな「騒音」となる可能性を考えていらっしゃいますか? 本末転倒も甚だしいですね。
「汚れの連鎖」理論の危険性:環境は「生態系」で成り立っている
次に、清水先生の提唱する「不潔は不協和音を生む:環境汚染の連鎖」という理論についてです。
この「蛙合唱事変」は、単なる騒音問題では終わりません。不潔は常に不協和音を生み出し、連鎖的に他の汚染を引き起こします。カエルがいるということは、池の生態系が特定の方向に偏っている可能性を示唆しています。そして、池の水質は?底に沈殿する泥や有機物は?考えただけで、全身が粟立ちます。
カエルの繁殖が「水質や周辺環境のバランスが崩れている証拠」とまでおっしゃるのであれば、それはまさに都市環境学の範疇です。大学内に池がある以上、その管理は専門的な知見に基づいた維持管理計画が必要です。例えば、底泥の除去、水生植物の適切な管理、外来種の抑制など、多角的なアプローチが求められます。単に「清掃」という名のもとに、生態系全体を破壊するような行為は、大学の教育理念にも反するのではないでしょうか。
「病原体の温床」に至っては、もはや誇張表現としか思えません。本当にそうしたリスクがあるのなら、それは大学全体の健康管理に関する重大な問題であり、専門の保健衛生部署が介入すべきレベルです。清掃員の一存で解決できるような話ではありませんね。
内臓教授の研究室は「特級汚染区域」か?「研究」と「居住」の境界線
清水先生は、同僚である内臓教授の研究室を「『特級汚染区域』、あるいは『バイオハザード区域』」とまで酷評し、強制清掃を夢見ているようですね。
この大学には、清潔という概念を理解しない、いや、むしろ不潔を愛好するかのごとき存在がいます。その最たる例が、内臓教授ですね。彼の研究室は、もはや「研究室」という名を冠するべきではありません。『特級汚染区域』、あるいは『バイオハザード区域』と呼称するのが適切でしょう。
私は、いつか彼の研究室に防護服を着て突入し、徹底的な強制清掃を敢行する機会を伺っています。
もし内臓教授の研究室から漂う悪臭が、近隣の研究室や廊下まで影響を及ぼしているというのであれば、それは建物の構造的な問題としてアプローチすべきです。換気システムが適切に機能しているか、排気経路に問題はないか、あるいは高気密・高断熱性能のドアの導入が検討されるべきですね。
清水先生が「内臓教授は私の『enemy』」とおっしゃるのには、正直、幼稚さを感じざるを得ません。学内の教員同士が、自身の専門分野の違いから、ここまで感情的な対立を深めるのは、教育機関としてあるまじき事態です。
「労働=汚れ」という短絡的思考:価値を生む「住」の営み
最後に、清水先生が『パルワールド オフィシャルカードゲーム』から導き出したという「労働」と「汚れ」の因果関係についてです。
「働く」ということは、すなわち「活動する」ということ。そして、活動する場所には、必ず「汚れが発生する」。これは、私の専門領域では常識中の常識ですね。
改めて強調しますが、私の専門領域では、「労働=汚れ」という方程式は揺るぎない真理です。
確かに、活動には物理的な痕跡が残ります。それは「汚れ」と呼べるものかもしれませんし、あるいは「経年劣化」や「使用による損耗」と呼ぶべきものです。しかし、重要なのは、その「痕跡」をいかに適切に管理し、メンテナンスを施すか、です。
清水先生は「カードをプレイするプレイヤーの手垢、皮脂、埃。そして、パルたちがカード上で『働く』ことによって生じる、目に見えない『仮想汚染物質』」にまで言及されていますが、現実の住環境における「汚れ」や「劣化」の問題に比べれば、取るに足らない極めて些細な問題です。
清水先生、あなたの「清潔」は、あまりにも「住」を貧しくしていませんか?
清水先生のブログ記事を拝読し、私は強く感じました。先生の「清潔」に対する価値観は、あまりにも人間らしい生活や、多様な価値観、そして豊かな環境を排除しようとする危険性を孕んでいる、と。
「家は城」。私にとって住まいとは、ただ雨風をしのぐ場所ではありません。そこには、家族との思い出が刻まれ、個人の歴史が紡がれ、そして日々の営みが繰り返される「人生の舞台」です。多少の生活感や、時の流れによる「使用感」は、むしろその空間が「生きている」証拠ではないでしょうか。全てを無菌状態、無音状態にすれば、本当に人は幸せになれるのでしょうか?
清水先生は、私の同僚である山本准教授のテント生活を「住所不定」として問題視されていますね。私とて、建築基準法に則った住居を持たない山本准教授には、ぜひ快適なワンルーム物件を契約してほしいと思っています。しかし、山本准教授の生活様式もまた、住環境に対する多様な価値観の一つであることは否定できません。清水先生のように、自身の価値観を絶対視し、他者の生活を「汚れ」と断罪し、強制的に排除しようとする姿勢は、非常に危険な思想と言えるでしょう。
住環境を「アップデート」するとは、単に「汚れ」を取り除くことではありません。より快適に、より安全に、より自分らしく生きられる場所を見つけることです。
国際叡愛総合芸術大学 都市環境学部 教授 三宅 浩

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