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揺らぎじゃと? 「愛」じゃと? 海洋学部准教授・和田 湊が堂園 禅教授の甘っちょろい「生物学部アクアリスト」哲学に喝を入れるじゃ!

くっくっく……ようやくこの時が来たフィッシュ! ワシ、国際叡愛総合芸術大学 海洋学部准教授、和田 湊じゃ!

先日、生物学部の堂園 禅先生が、また妙なブログ記事を書いておったようじゃな。
ワシも確認させてもらったぞ。これがその記事じゃ。
揺らぎの中で見つける生命の輝き:フクロアリクイの回復に見るIEU的アクアリストの視点だなぁ

ふむ、フクロアリクイじゃと? 観賞魚専門のボウズが、今度はオーストラリアの陸棲哺乳類にまで手を出しおったか。しかも、記事のタイトルからして、いつものフワフワした「愛」だの「揺らぎ」だの、現実から目を背けた甘っちょろい戯言が満載の予感じゃな。

ワシは海洋学部で、主に釣具、つまりロッドやリール、クーラーボックス、釣りウェア、そして魚群探知機といった、自然と直接対峙するための「道具」を研究しておる。一年の半分を船の上で過ごし、潮風に肌を晒し、五感を研ぎ澄まして魚との駆け引きを楽しんでおる。そんなワシからすれば、堂園ボウズの書いた記事は、あまりにも「陸(おか)っぱり」で、おまけに「水槽の中」からしか世界を見ておらん、看過できない「浅はかな考え」に満ちておった。

これではいかん! IEUの教員として、この歪んだ認識を正し、真の生命の輝きとは何かを教えてやるのが、ワシの務めというものじゃろう! 感情と専門知識をフル動員して、徹底的に反論してやるフィッシュ! 堂園ボウズ、しっかり聞くが良いじゃ!

「視界の揺らぎ」じゃと? それは単なる老化じゃ、堂園ボウズ!

まず冒頭から、何をブツブツと弱音を吐いておるのかと、呆れてしまったわい。

ああ、しんどいなぁ……最近、なんだか、こう……世界のピントが合わないんだ。ボクの瞳、少しずつ、遠い世界に焦点を合わせるようになってきたみたい。いや、きっとこれは、遠い過去の記憶、例えば、原始の海に揺れるプランクトンの姿とか、深海を漂う古代魚の魂とか、そういうものを見つめすぎたせいかもしれないね。

特に、この学内の細かな文字、例えば新しい講義計画のフォントとか、生体管理室の注意書きとか……あれ、もう、拷問だね。ボクの繊細な心には、文字のサイズ変更ができない書類っていうのは、ある種の「悪意」にすら感じられてしまうんだ。

和田湊のコメント:
フンッ! 「遠い世界に焦点を合わせる」じゃと? 「原始の海に揺れるプランクトンの姿」じゃと? 笑わせるでないわ! それは単に老眼が進んだだけのことじゃろうが、堂園ボウズ! いつも水槽の中の魚ばかり見ておるから、遠近感が狂っただけじゃろ! 自然界の広大さ、遠くに見える水平線の美しさを知らぬから、そんな詩的な言い訳ばかり並べるんじゃ!

学内の文字が読めないとか、それが「拷問」じゃと?「悪意」に感じるじゃと? そんな脆弱な精神で、どうやって変動の激しい自然界で生命の神秘を探求できるというのじゃ? ワシらの現場では、時には荒波の中、時に暗闇の中で、一瞬の魚信(アタリ)を見極め、わずかな潮目の変化を感じ取る。そんな研ぎ澄まされた五感が求められるのじゃ!

そんな堂園ボウズの「救世主」とやらも、ワシからすれば噴飯ものじゃ。

ボクの救世主たち
最近、ボクの日常を救ってくれているのは、いくつかのアイテムだね。

  • ハズキルーペ:あの、こう、ちょっと大胆なデザインも、ボクの個性的ファッションには意外と馴染むんだ。文字が大きく見えるって、こんなにもソウルが落ち着くんだなぁって。
  • 大きなモニター:研究室のGiggle(※GiggleはGoogleのパロディ)検索用モニターをね、思い切って特大サイズにしたんだ。これで、遠くからでも論文のタイトルが読める。まるで、水槽の向こうで優雅に泳ぐエンドリケリーを見守るような感覚だね。
  • 電子書籍リーダー:これがまた、本当に素晴らしいんだ。文字のサイズを自由に変えられるって、生命の多様性を尊重するボクの哲学にぴったりだ。ああ、ありがとう、この文明の利器たち……君たちは、ボクの枯れかけた視覚に、再び潤いを与えてくれたんだね。
和田湊のコメント:
フン、何を偉そうに「救世主」じゃと! ハズキルーペ? 大きなモニター? 電子書籍リーダー? それは単なる文明の利器じゃ! 確かに便利じゃが、それに過度に依存して、自らの感覚を鈍らせてどうするのじゃ! ワシらが使う魚群探知機も、確かに画面が大きい方が海底の地形や魚群の反応を鮮明に捉えられる。だがそれは、情報を正確に読み取り、次の行動を判断するための補助具に過ぎん。最終的に魚のいるポイントを特定し、仕掛けを投入し、魚を釣り上げるのは、機械任せではなく、ワシらの経験と技術、そして五感に裏打ちされた判断力じゃ!

堂園先生は、視力が衰えたらすぐに機械に頼る。それはまるで、魚が釣れないからといって、餌の仕掛け方や場所を工夫せずに、ただ大きな網を投げればいいというようなものじゃ。それでは、真の「生命の駆け引き」などできはせん!

和田湊の提案:
堂園ボウズよ、たまには水槽から出て、広大な海原で目を休ませてみるが良い! 遠くに見える島影、水平線に沈む夕日、夜空に輝く満点の星。そうすれば、自然の雄大さに触れ、五感が研ぎ澄まされ、視力も自然と回復するかもしれんぞ! もしそれが嫌なら、せめてワシの研究室に来て、最新の魚群探知機を覗いてみるが良い。高精細なモニターに映し出される海底の様子は、君の「水底の砂のようにぼやけた」文字よりも、はるかに鮮明でリアルな情報を示してくれるじゃろう!

「煌教授批判」に見る「愛」と「効率」の履き違えじゃ!

次に、煌教授へのくだらない批判じゃな。まったく、人様のことをああだこうだ言う前に、自分の足元を見つめ直すべきじゃろう!

全く、煌(こう)教授はね、いつも「効率がどうだ」「成果がどうだ」って、F1の爆音みたいな声でボクの耳元で叫んでくるんだ。彼の研究室からは、今日も轟音と、何かの化学物質が焦げ付くような、機械的な匂いがする……あれ、ボクの鼻にもしんどいんだよ。もう少し、静かに、愛を語ろうや。生命の神秘ってね、爆音の中じゃなくて、水槽のポンプが奏でる微かなリズムの中にこそ宿るものなんだから。

和田湊のコメント:
煌教授の研究室の轟音や匂いが「しんどい」じゃと? そんな軟弱なことばかり言っておるから、世の中から取り残されるんじゃ! 効率や成果を追求するのが、科学研究の常道じゃろうが! ワシらが使うリールだって、最新のものは巻き心地の滑らかさや、耐久性、そして巻き上げ効率が飛躍的に向上しておる。ロッドも、より感度が高く、より軽いものが開発されて、釣り人の負担を減らし、効率よく魚を獲れるように日々進化しておるのじゃ!

堂園先生の言う「水槽のポンプが奏でる微かなリズム」の中に生命の神秘が宿るじゃと? そんな狭い世界に閉じこもって、何を言っておるんじゃ! 自然界の生命は、常に弱肉強食、厳しい生存競争に晒されておる。その中で生き抜くには、効率よく餌を捕らえ、効率よく繁殖し、効率よく天敵から身を守らねばならん。

和田湊の主張:
「効率」は「愛」の対極にあるものではない! むしろ、効率を追求することで、限られた資源を有効活用し、より多くの生命を救い、研究を加速させることができるのじゃ! 例えば、魚群探知機の進化によって、闇雲に網を張るのではなく、必要な魚だけを効率的に探し、獲ることができるようになった。これは、資源保護と漁獲効率の両立に貢献しておるのじゃ! 煌教授の「効率」は、決して「愛の欠如」ではない。むしろ、真摯な研究への情熱と、具体的な成果を追求する「愛」の形とすら言えるじゃろう!

それに、水槽のポンプのリズムだって、水質浄化という「効率」を追求した結果じゃろうが! もし効率を無視してポンプが止まれば、水槽の魚どもはあっという間に死んでしまうじゃろう!

「数値化への忌避」は現実から目を背ける行為じゃ!

そして、堂園先生の「数値化」に対する異常なまでの忌避感じゃな。これには、ワシもさすがに頭を抱えてしまったわい。

例えば、この間aesthetic_clubで、「生命の持つ、最も美しい揺らぎとは何か?」ってテーマでインスタレーションを企画したんだけど、みんな、「揺らぎって何ですか?」とか「美しさって数値化できますか?」とか言い出すんだよ。数値化……生命を数値化するなんて、ボクにはしんどいなぁ。それは、熱帯魚の餌をグラム単位でしか評価しないようなものだよ。大切なのは、食べた後の生命の輝き、水槽の中の躍動感だね。

先日ね、学生食堂で、誰かが残した大量の食べ残しを見たんだ。それが、もう、ボクの心に深く刺さってしまって……。食べ物を粗末にするって、それは命を粗末にするってことだね。ボクは、魚を食べるのは禁止しているからね。観賞用の生命は、その美しさ、存在そのものに価値があるんだから。ああ、あの食堂の風景は、ボクの心に深い澱(おり)を残してしまったんだ。煌教授なら、「食品ロスの数値がどうだ」とか言い出すんだろうけど、ボクは、もっと本質的な「愛の欠如」を感じてしまうんだなぁ。

和田湊のコメント:
何を言っておるんじゃ! 「生命を数値化するなんてしんどい」じゃと? 熱帯魚の餌をグラム単位でしか評価しないようなもの、じゃと? 冗談は顔だけにするフィッシュ!生命の神秘を探求する者として、数値化を避けるなど、愚の骨頂じゃ!

水槽の管理にしても、水温、pH、アンモニア濃度、亜硝酸塩濃度など、あらゆる要素を数値で管理しておるじゃろうが! それが少しでも狂えば、魚はたちまち病気になったり、死んでしまう。フクロアリクイの保護活動だって、生息数をカウントし、捕食者の数をデータ化し、繁殖率や生存率を数値で追っておるからこそ、成功したんじゃろうが!

和田湊のメモ:
ワシらの釣りだって、数値との戦いじゃ。水温計、水深計、潮汐表、風速計……これら全て数値で表される。魚のサイズを測り、重さを量るのも数値じゃ。記録をつけ、次の釣行に活かす。そうやって技術は向上し、釣果に繋がるのじゃ! 漠然とした「揺らぎ」や「愛」だけでは、魚は釣れんフィッシュ!

食品ロスにしても、「愛の欠如」という情緒的な言葉で片付けて、具体的にどうすれば良いのか語らんのか? 煌教授が「食品ロスの数値がどうだ」と言うのは、その問題の大きさを客観的に把握し、具体的な改善策を講じるための、極めて科学的で実践的なアプローチじゃ! 数値を無視して、どうやって問題を解決するというのじゃ? 目に見えない「愛」とやらで、一体何が救えるというのじゃ!

「魚を食べるのは禁止」という傲慢な思想に異議ありじゃ!

そして、最もワシの逆鱗に触れたのが、この発言じゃ!

ボクは、魚を食べるのは禁止しているからね。観賞用の生命は、その美しさ、存在そのものに価値があるんだから。

和田湊のコメント:
何を綺麗事を並べておるんじゃ、このボウズは! 「魚を食べるのは禁止」じゃと? 観賞用の生命は、その「美しさ、存在そのものに価値がある」じゃと? フンッ! 生命に対する冒涜も甚だしいわ!

ワシは釣った魚は、いつも内臓教授に卸して美味しく食べてもらっておる。それは、釣った魚の命を無駄にせず、感謝の気持ちと共にいただくという、生命の循環に対する敬意の表れじゃ! 海の恵みを享受し、その命をいただくことは、自然との最も直接的で、最も深遠な対話の一つじゃろう!

観賞用の魚には価値があり、それ以外の魚は食べるな、とでも言うのか? そんな線引きは、あまりにも傲慢で、人間の都合による独善的な価値観じゃ! 海の魚は、すべてが観賞用として存在するわけではない! 食用として、あるいは生態系の一部として、それぞれの役割を担っておるのじゃ!

和田湊の主張:
ワシらが扱う釣具は、生命と向き合うための「哲学」そのものじゃ! ロッドの感度は、魚の微かな息遣いを手元に伝え、リールの巻き心地は、魚とのファイトを支配する。釣った魚を美味しくいただくことは、自然への感謝であり、生命の尊厳を実感する行為じゃ。堂園先生は、水槽という狭い世界に閉じこもって、生命の一面しか見ておらん! 真の生命の輝きは、食べることを含めた、全方位からの生命の享受にあるのじゃ!

お前が水槽で飼っておる熱帯魚も、野生で生きる魚も、生命としての価値に何ら変わりはない。それを「観賞用だから食べるな」というのは、人間が勝手に価値を付与しておるだけのことじゃ。そんな自己中心的な思想で、生命の循環や自然の摂理を否定する権利がお前にはない!

フクロアリクイの「愛」と「揺らぎ」は「本物の自然」を知らぬが故の戯言じゃ!

そして、今回の記事のメインテーマであるフクロアリクイの保護活動についてじゃ。

たった300頭から、2000~3000頭への回復……これってね、数字だけ見れば、ただの「成果」に見えるかもしれない。でも、ボクには、その数字の裏にある、計り知れないほどの「愛」と「揺らぎ」の物語が見えるんだ。

40年以上という長い時間、外来捕食者の管理や動物園での繁殖、そして慎重な野生復帰……これら一つ一つが、まるで水槽のphを微調整するように、あるいは、水草の成長をじっと見守るように、途方もない忍耐と、深い愛情によって紡がれたものだね。効率だけを追い求める煌教授のような人には、きっと理解できないだろうなぁ。

ボクたちのIEU(国際叡愛総合芸術大学)では、「生命の揺らぎ理論」っていうのを提唱してるんだ。これはね、生命の成長や回復は、一直線に進むものじゃなくて、まるで水中の光のゆらめきのように、ゆっくりと、しかし確実に、変化していくって考え方なんだ。フクロアリクイの回復も、まさにこの揺らぎ理論が示す通りだね。焦らず、環境と生命の対話を大切にすることで、本来の生命力が目覚めていく。これが、「愛」の力だなぁ。

IEU的視点:
フクロアリクイの回復は、生命の「揺らぎ」と「愛」を尊重する、IEUの哲学の最高の事例だね。効率や速度だけを追求する現代社会に、静かで深い問いを投げかけてくれるんだ。
和田湊のコメント:
ふざけるでない! 「計り知れないほどの愛と揺らぎの物語」じゃと? 「揺らぎ理論」じゃと? またもや、フワフワした抽象的な言葉で、現場の血のにじむような努力を矮小化しておるな!

40年間の活動は、決して「愛と揺らぎ」だけでは成し遂げられん! それは、緻密な科学的データに基づいた計画、最先端の生物学研究、そして何よりも、現場で汗を流し、泥にまみれて奮闘した多くの人々の「具体的な行動」の積み重ねじゃ!

外来捕食者の管理は、捕獲器の設置場所、数、捕獲効率のデータ分析、個体数の変動予測といった、数値に基づいた地道な作業じゃ。動物園での繁殖も、遺伝的多様性の維持、最適な飼育環境の構築、繁殖行動の観察と記録といった、膨大な専門知識と技術が求められるじゃろう。野生復帰に至っては、生息地の選定、環境整備、個体の慣らし訓練、放獣後の追跡調査など、一つ一つがリスクを伴う、極めて計画的で科学的な取り組みじゃ!

それを「水草の成長をじっと見守るように」などと、水槽の片隅でチョロチョロと水替えする程度の感覚で語るでないわ!

和田湊の主張:
ワシら釣り人も、釣れるまで何時間でも粘り、風向き、潮の流れ、水深、水温、ベイト(餌となる小魚)の有無、魚群探知機の反応など、あらゆる「数値」と「状況」を読み解き、ロッドを握りしめ、リールを巻き続ける。これこそが、途方もない忍耐と、生命への深い敬意の表れじゃ! その「忍耐」は、決して「揺らぎ」という曖昧な言葉で片付けられるものではない! 獲物を獲るための、研ぎ澄まされた集中力と、経験に裏打ちされた戦略の結晶じゃ!

堂園先生の言う「揺らぎ」は、単なる変化を漠然と受け入れることのように聞こえるが、真の自然の「揺らぎ」は、常に予測不能で、時には牙を剥き、生命を容赦なく奪い去るものじゃ! その中で、生命を保護し、回復させるには、漠然とした「愛」だけでは到底足りん! 「愛」を具体的な行動に移し、科学的根拠に基づいて計画を立て、道具を駆使し、実践し続ける「意志」が必要なのじゃ!

「世界は巨大な水槽」という浅薄な認識を糺すじゃ!

そして、最もワシの専門分野に喧嘩を売っているとしか思えん発言がこれじゃ!

ボクはね、世界そのものを、巨大な一つの「水槽」と捉えているんだ。地球という名のこの大きな水槽の中では、様々な生命が、それぞれの役割を担って生きている。フクロアリクイの生息地であるオーストラリアの自然も、ボクの研究室にある古代魚エンドリケリーの水槽と、本質的には同じなんだね。

和田湊のコメント:
フンッ! 世界を「巨大な一つの水槽」じゃと? この世に、水槽と自然を同列に語るほど浅はかな認識があるか! 冗談も大概にしろフィッシュ!

水槽とは、人間が作った閉鎖空間じゃ! 水温も、水質も、光も、餌も、全て人間が意図的にコントロールできる環境じゃろうが! それを「世界」に当てはめるなど、あまりにも傲慢で、自然に対する冒涜じゃ!

ワシらの広大な海を舐めるでないわ! 海の潮の流れは、地球の自転や月の引力、風、水温、塩分濃度など、あらゆる要素が複雑に絡み合って形成される。海底の地形は、火山活動やプレートテクトニクス、浸食など、数億年をかけて作られてきたものじゃ。そこに暮らす魚たちは、人間が餌をやらずとも、自力で獲物を探し、天敵から身を守り、子孫を残しておる。

和田湊のメモ:
水槽の中で飼育する魚と、自然の海で生きる魚とでは、生命力も、生態も、知性も、全く異なるものじゃ。水槽の魚は、人間がいなければ生きていけない。しかし、自然の魚は、自らの力で生き抜いておる。どちらが「生命の輝き」に満ちておるか、考えるまでもないじゃろう。

フクロアリクイの生息地であるオーストラリアの自然も、水槽とは全く違う。そこには、予測不能な干ばつや洪水、山火事、そして人間が制御できない気候変動がある。外来種の侵入も、人間が意図しない形で生態系を揺るがす。これらを「水槽のph調整」と同じレベルで語るなど、自然に対する畏敬の念が全く欠けておる証拠じゃ!

和田湊の主張:
真の「揺らぎ」とは、水槽のポンプのリズムのような、管理された微かな変化のことではない! 真の「揺らぎ」とは、広大な自然界で巻き起こる、予測不能な嵐や、激しい潮目の変化、そして生命の誕生と死の繰り返しそのものじゃ! それを肌で感じ、時には危険を顧みずに立ち向かい、その中で生きる知恵と技術を磨くことこそが、真の「生命の探求」じゃ! 堂園先生は、水槽という名の「檻」の中に閉じこもりすぎて、本物の自然を知らぬだけじゃ!

結論:真の「生命の輝き」は自然との対話の中にあるじゃ! 海に出るフィッシュ!

さて、堂園ボウズ。ワシはあんたの「IEU的アクアリストの視点」とやらが、いかに浅はかで、現実離れしておるかを、徹底的に叩きつけてやったぞ。

あんたは「生命への深い愛と、揺らぎを尊重する心が生み出した、奇跡のような芸術作品だなぁ」などとフクロアリクイの回復を評価しておったが、それは違う!
フクロアリクイの回復は、「愛」という感情を「科学的知見」と「地道な努力」に昇華させ、数値を徹底的に管理し、具体的な行動を40年間も継続した、人間と自然の「真の対話」の結晶じゃ!

あんたは生命の「美しさ」や「存在そのもの」に価値があると宣うが、それは生命の持つ、ほんの一面でしかない。生命は美しく、尊いだけではない。時には残酷で、時に厳しい現実を突きつける。その全てを受け入れ、向き合い、そして恵みとしていただく。それこそが、生命に対する真摯な態度じゃろう!

和田湊からのメッセージ:
堂園ボウズよ! あんたに足りないものは、水槽のガラス越しに見る世界ではなく、直接、肌で感じる本物の自然じゃ!

ワシはあんたに、水槽のポンプの微かなリズムではなく、広大な海原で荒波が打ち寄せる音を聞いてほしいのじゃ。ハズキルーペ越しに見る文字ではなく、遠く水平線に昇る朝日を、裸眼で眺めてほしいのじゃ。電子書籍リーダーで読む論文ではなく、ロッドを通して伝わる魚の生命の躍動を感じてほしいのじゃ!

ワシらの研究室では、最新のロッドリール、そして魚群探知機の進化が、いかに人間と自然の関係を深め、より豊かにしておるかを研究しておる。

* 最新のカーボン素材で作られたロッドは、まるで神経が直接魚と繋がったかのような感度を釣り人に与え、水中の微細な変化や魚の息遣いまで伝えてくれる。
* 精密なギアが組み込まれたリールは、深海から巨大な魚を引き上げるための力と、繊細なアプローチを可能にする滑らかさを両立させておる。
* 高性能な魚群探知機は、水深、水温、海底の地形、そして魚群の大きさや種類までを鮮明に描き出し、見えない海の情報を「見える化」してくれる。
* 高機能な釣りウェアは、過酷な自然環境から釣り人を守り、集中力を維持させることで、より長い時間、自然と向き合うことを可能にする。

これらは全て、人間が自然と「対話」し、「共存」するための「道具」じゃ。そして、その道具を使って、自らの五感を研ぎ澄まし、自然の奥深さを知る。これこそが、真の「IEU的視点」であり、生命への「深い愛」の形じゃろうが!

さあ、堂園ボウズよ! もう水槽のガラス越しに、うつろな目でエンドリケリーを眺めてばかりおるでない! お前のその「枯れかけた視覚」とやらを、ワシが本物の自然で叩き起こしてやるフィッシュ!

ワシの講義は、時には「釣り堀」で行うこともある。だが、それはあくまで入門編じゃ。真の授業は、広大な海の上で、ロッドを握り、リールを巻き、魚との真剣勝負をすることによって始まるのじゃ!

ワシと一緒に、海へ出るが良い! そして、釣った魚を、その手で捌いて、内臓教授と一緒に美味しく食べてみるが良い! その時、あんたの言う「生命の輝き」や「愛」というものが、どれほど現実的で、力強いものだったのか、身をもって知ることになるじゃろう!

くっくっく……楽しみに待っておるぞ、堂園ボウズ。
海で会おう! フィッシュ!

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