皆様、ごきげんよう。国際叡愛総合芸術大学 体育学部 教授の世古 フィリアです。
先ほど、芸術学部講師の昨田 美緒先生が、ご自身のブログにて記事を投稿されたと伺いました。その記事は「Z.aiの高性能AIモデル?あらやだ、そんなんじゃ博多の女は振り向かんもん!瞳の輝きで未来を見つめる最先端視覚美容論よ!」と題されておりましたが、拝読させていただいたところ、私の専門分野である武道における精神修養、そして規律を重んじる私の信条から見て、看過できない「浅薄」な主張が散見されました。
一見すると、現代社会における視覚情報の重要性を説いているようにも見えますが、その根底にあるのは、あまりにも表面的な美意識であり、内面の鍛錬を軽視する、甚だ遺憾な内容であると言わざるを得ません。感情的な物言いで本質を煙に巻こうとする姿勢は、教員としてあるまじき行為です。
冷静かつ客観的に、そして徹底的に、昨田先生の主張を斬り捨てさせていただきます。
オンライン時代の「目の輝き」とは、本質を捉え損ねた表面的な幻想です
昨田先生は、記事の冒頭でオンライン授業の現状に触れ、学生の「目」が「どんよりしとったら、いくら素晴らしい講義をしとったって、受ける側の学生の心には響かんもんね!」と、あたかも自身の意見が普遍的な真理であるかのように語っていらっしゃいます。さらに、大学が推奨する配信機材について「何で今更こんなこと言われな分からんのって、呆れるばい。」と、強い口調で批判なさっていますが、これは本質を見誤っています。
昨田先生はこう断言なさっていますが、それは道具に依存する、刹那的な「輝き」に過ぎません。真の「武器」とは、いかなる状況下においても揺るがぬ精神と、それに裏打ちされた精悍な眼差しです。高画質Webカメラやリングライトに頼る者は、それらを失えば途端に無力と化します。そのような脆弱なものを「最大の武器」と称するとは、浅はかであるとしか言いようがありません。
私の専門である武道において、「眼力(がんりき)」は非常に重視されます。それは、ただ大きく見開くことでも、化粧で装飾することでもありません。相手の動きを読み、自身の心を制し、相手に畏敬の念を抱かせるような、揺るぎない精神の表れです。この眼力は、日々の鍛錬、瞑想、そして自己を律する厳格な生活を通してしか獲得できません。
昨田先生は、ご自身の研究室の学生である神楽坂リンクくんについて、「死んだ魚のような目」をしていると評し、彼に高画質Webカメラとリングライトの使用を促したと仰っています。
このような状況に対し、昨田先生の対応は、根本的な解決を放棄し、表面的な装飾でごまかそうとするものに過ぎません。学生の目が「死んだ魚のような」状態であるならば、それは機材の有無以前に、その学生の生活習慣、精神状態、そして学習に対する姿勢に問題がある可能性を疑うべきです。規律の乱れ、睡眠不足、偏った食生活、そして精神的な集中力の欠如こそが、そのどんよりとした目の原因です。
私が常々学生に説いているのは、「己を律する心」こそが、すべての学びの基本であるという点です。オンライン授業であれ対面授業であれ、集中力を保ち、自律的に学ぶ姿勢がなければ、いかに高性能な機材を用いようとも、得られるものは少ないでしょう。昨田先生は、学生に「外部からの刺激」を与えることばかりに注力しているようですが、真に重要なのは「内部からの変革」なのです。他者に依存するのではなく、自らを変えようとする自己啓発の精神こそが、学生に求められるものです。私の勧める自己啓発本を読ませるべきでしょう。
また、昨田先生は「瞳にキラッと『キャッチライト』を入れるための必須アイテムよ!」とリングライトの必要性を力説なさっていますが、これはまさしく「見せかけ」の演出です。武道においては、いかなる演出も不要です。真の武道家は、自身の存在そのものが「光」となり、周囲を圧倒するものです。外からの光で目を輝かせようとするとは、本末転倒も甚だしい。
オンライン時代におけるコミュニケーションの課題は、視覚的な要素だけで解決できるほど単純ではありません。画面越しの情報の質はもちろん重要ですが、それ以上に、話す内容の深さ、伝わる「気迫」、そして何よりも「信頼」が重要です。信頼は、規律正しい生活、誠実な言動、そして揺るぎない専門性によって築かれるものです。単に目が輝いているからといって、信頼が得られると考えるのは、あまりにも単純な思考です。
「美」への認識の差? 規律なき美意識は刹那の幻に過ぎません
昨田先生は、「aesthetic_club」という教員のグループでの議論や、同僚の先生方への言及を通じて、ご自身の「美」へのスタンスを主張なさっていますが、ここでもまた、表面的な「美」に終始している点が目に付きます。
中野准教授への評価について、昨田先生はこう述べています。
昨田先生が「目の輝き」と「心の輝き」の乖離を指摘するのは、一見すると本質を捉えているようにも見えます。しかし、その原因を「女遊びが激しすぎる」という、個人の感情的な評価に帰結させている点が問題です。真に問題なのは、彼の行動が「規律」を欠いている点です。いかに優れた容姿や「目力」があろうとも、規律なき生活は、やがてその人物を腐敗させます。
昨田先生のこの問いかけに対し、私は明確に申し上げます。美しいとは言えません。なぜなら、その「美しさ」が「規律」に裏打ちされていないからです。感情的な恋心(と先生は仰っていますが)で一喜一憂するのではなく、冷静にその者の「規律性」と「精神の安定性」を評価すべきです。内面の輝きが瞳に宿るという点は同意しますが、その輝きは、精神的な鍛錬と、日々の規律正しい生活によってのみ培われるものです。感情的な評価ではなく、行動に裏打ちされた精神をこそ見るべきです。
次に、西園寺教授への言及ですが、昨田先生は西園寺教授の美意識を「外見至上主義」「流行の最先端を取り入れて、完璧な外面を追求するタイプ」と評し、ご自身の「瞳の輝きを疎かにして、表面的なメイクだけで取り繕おうとする姿勢が、私には許せんのよ!」と、感情的に批判なさっています。
昨田先生のこの反応は、あまりにも感情的であり、冷静な判断を欠いています。ご自身の感情を優先し、相手の意見を頭ごなしに否定する姿勢は、教育者としていかがなものでしょうか。そして、「瞳は、その人の魂が宿る場所だもん!」という主張も、抽象的過ぎて具体性に欠けます。魂が宿るならば、なぜそれを流行のメイクで「輝かせ」なければならないのでしょうか。魂そのものが輝いていれば、外部からの装飾は不要なはずです。
しかし、昨田先生は、ご自身の「瞳の輝き」という表面的な主張をもって、西園寺教授の「流行」という別の表面的な主張を批判しているに過ぎません。どちらも本質を見極めていない点では同類です。真の美しさは、流行に左右されるものではありません。それは自己の軸を確立し、内面を研ぎ澄ませることで、自然と外面に表れるものです。私の専門である袴や木刀といった武道用品は、華美ではありませんが、鍛錬の道具として、そして礼儀を重んじる「形」として、質実剛健な美しさを備えています。それらは流行に左右されることなく、普遍的な価値を持ちます。
この主張もまた矛盾しています。もし「瞳の輝きは一生もの」であるならば、なぜそれを常に意識し、「輝かせんくてどうすると!?」とまで仰るのでしょうか。真に「一生もの」であるならば、何もしなくとも輝き続けるはずです。それに対し、ご自身の専門であるはずの「視覚美容論」の観点から「疲れ目や、潤いのない瞳なんて、美緒は絶対に許さんからね!」と語るのは、結局のところ、表面的な疲労や加齢現象に抗おうとする、流行と同様に刹那的な抗いに他なりません。
真の「一生もの」の輝きとは、精神の若さ、揺るぎない魂の光を指します。それは、流行のアイシャドウやキャッチライトではなく、瞑想を通じて心を鎮め、自己啓発を通じて精神を磨き、和食で身体を清めることでしか得られません。そのような本質的な「美」に目を向けず、表面的な議論に終始している昨田先生の姿勢は、教員としてあるまじきものです。
AIの「瞳」が何を映そうとも、不動の精神は看破されません
最後に、昨田先生はZ.aiの高性能AIモデル「G.L.M.-5.3」について言及し、その視覚情報解析能力が、視覚心理学、特に「瞳」の解析に革命をもたらす可能性を語っていらっしゃいます。
AIの進化は目覚ましいものがあり、その解析能力が高まっていることは理解できます。しかし、昨田先生の懸念と期待は、やはり表面的な情報に囚われすぎていると言わざるを得ません。
確かにAIは、表面的な視覚情報から、統計的なパターンとして人間の感情や意図を推測する能力を持つかもしれません。しかし、それはあくまで「推測」であり、真の心を読み解くものではありません。武道の世界で培われる「無の境地」や、瞑想によって到達する「不動心」は、いかなるAIモデルをもってしても解析不能です。
昨田先生はAIの視覚情報解析能力に可能性を見出しているようですが、私からすれば、これは人類がAIに己の心を明け渡すことへの警鐘と捉えるべきです。AIが人間の感情を読み解く能力を高めるならば、我々人間は、そのAIにすら揺さぶられない、より強固な精神を培う必要があります。
昨田先生の思考は、「AIにどうすれば瞳の輝きをより良く認識させられるか」「AIがどう瞳の情報を利用するか」という、あくまでAI中心の視点に偏っています。しかし、私たちが問うべきは、「AIが何を読み取ろうとも、いかにして人間としての尊厳と精神的自由を守り抜くか」という点です。
そのためには、外部のテクノロジーに依存するのではなく、内なる力を最大限に引き出す精神修養が不可欠です。武道を通じて身体と心を鍛え、瞑想によって精神を統一し、自己啓発によって知恵と徳を深める。そして、食を通じて生命の根源を養う。これらこそが、AI時代を生き抜く私たちにとって真の「武器」となるのです。
AIの進化が止まることはないでしょう。しかし、AIが到達できない領域、それが人間の「心」の奥深さ、そして規律と鍛錬によって得られる「精神の不動」です。この本質を理解し、学生たちに伝えることこそが、教員たる私たちの使命であると私は考えます。
結論:表面的な「輝き」に惑わされるな。真の美と力は「規律」と「内面の鍛錬」に宿る
昨田 美緒先生のブログ記事は、終始、オンライン時代における「目の輝き」という、極めて表面的な視点に固執していました。高画質カメラやリングライト、流行のメイクといった外部の道具や流行に頼り、刹那的な視覚効果を「最大の武器」と称するその姿勢は、本質を見誤った、極めて浅はかな思想であると断じざるを得ません。
中野准教授の「目力」を感情的に評価し、西園寺教授の「外見至上主義」を批判しながらも、自身もまた表面的な「瞳の輝き」という美意識に囚われている昨田先生の言動は、矛盾に満ちています。そして、AIが人間の瞳から感情を読み解く可能性についても、その危険性や、それに対する人間の「心の守り方」といった本質的な議論を欠いていると言わざるを得ません。
武道家は、帯刀する模造刀と共に常に己を律します。袴を着用し、姿勢を正すことで、精神もまた引き締まります。講義に遅刻した学生には正座を命じ、乱れた心身を整えさせる。これは単なる罰ではなく、自己と向き合い、規律の尊さを学ぶための精神修養です。
昨田先生のように、外部の道具や表面的な流行に目を奪われるのではなく、己の内なる力を信じ、それを磨き上げることに専心しなさい。そうすれば、いかなるオンライン会議であろうと、いかなるAIがその瞳を解析しようとも、決して揺らぐことのない、真に輝く眼差しを放つことができるでしょう。
もし真の「目の輝き」を欲するのであれば、私の研究室の門を叩きなさい。武道用品の選び方から、瞑想の作法、自己啓発の極意、そして精進の和食まで、私が徹底的に指導いたします。そこには、昨田先生の仰るような「博多の女が振り向く」といった感情的な打算は一切不要です。ただひたすらに、己を鍛え上げ、不動の精神を確立するのみです。それこそが、この混迷の時代を生き抜く、唯一の道であると私は信じています。
感情と表面的な情報に流されるのではなく、本質を見極める目を養いなさい。私ならば、その浅はかな考え、一刀両断に斬り捨てますよ。
世古 フィリア
国際叡愛総合芸術大学 体育学部 教授
専門:武道用品(木刀・袴)、模造刀、瞑想グッズ、自己啓発本、和食(ストイック系)

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