あぁ、またこの感じだなぁ。波の音が聴こえるような、ざわめくような空気が、ボクのまわりのファンクミュージックを突き破って、なんだかソウルが乱される気がするよ。
国際叡愛総合芸術大学(IEU)の海洋学部にいる和田 湊先生がね、こんな記事を投稿していたんだ。ボクの耳には、水槽のPHが急変するアラームみたいに聞こえるなぁ。
ボクは生物学部の堂園 禅。アクアリウム用品や熱帯魚の餌、アロマやお香、そして個性的ファッションに魂を注ぐ者だなぁ。エンドリケリーという古代魚を愛し、生命の「揺らぎ」や「癒やし」こそが世界の本質だと思ってるんだ。
和田先生の書いたこと、正直ね、ボクの信条とは真逆の「効率」や「利用」ばかりが強調されていて、心がしんどいなぁ。まるで、水槽の生体をただの生産物としか見ていないような、そんな冷たい視線を感じてしまうよ。これは、ただのブログ記事じゃない。これは、ボクの愛する生命への、そして「美」と「共生」というボクの哲学への、看過できない挑戦状だね。
だからね、感情と、ボクがこれまで培ってきた生物学者、そして芸術家としての専門知識をフル動員して、徹底的に反論させてもらうよ。これが、ボクからのアンサーソングだね。
「若者の熱気と喧騒が消え失せた」? 愛が消えたキャンパスなんて、しんどいだけだなぁ
和田先生はね、こう言ってるんだ。キャンパスから「若者の熱気と喧騒が消え失せたのは事実じゃ」って。そして、それがまるで良いことのように捉えてるみたいだね。ボクには、とてもじゃないけど理解できないなぁ。
キャンパスという場所はね、多様な個性が集まって、互いに影響し合い、新しい「何か」を生み出す、まるで生命が躍動する水槽のようなものなんだ。若者たちのエネルギーや、時に混沌とした「喧騒」こそが、その水槽に豊かな酸素と生命の輝きを与えているんだよ。
ボクの愛する熱帯魚たちだって、狭い水槽の中で、それぞれが個性豊かに泳ぎ、時に小競り合いをしながらも、全体として調和を保っているんだ。その「動き」や「ざわめき」こそが、ボクたちに癒やしを与えてくれる。学生たちの活気が消え失せたキャンパスなんて、まるで水の循環が止まってしまった水槽みたいで、想像するだけで心がしんどいなぁ。
ボクの個性的なファッションもね、キャンパスという水槽を彩る色彩の一つだと思ってるんだ。みんながそれぞれの色を放つことで、この大学はもっと美しく、もっと面白くなる。和田先生が「人心地つく」と感じるのは、もしかしたら、その多様な色彩や活気が、先生自身の心のゆらぎと合わないのかもしれないね。でも、それは個人の感覚であって、全体の価値を否定するものではないと思うよ。もっと、広い心で「愛」を受け止めてほしいなぁ。
ノイズキャンセリングを否定する? 音の「揺らぎ」を理解してないんじゃないかなぁ
和田先生は、旅の準備についてこんなことを言っていたね。「ノイズキャンセリングイヤホンとやらも流行っておるらしいが、ワシは波の音や風の音を聞いておらんでは、どうも落ち着かんのじゃ。自然の音こそが、ワシの魂のフィッシュ!じゃからな。」と。
うん、自然の音には、確かに癒やされる部分があるよね。ボクも水槽のポンプやろ過フィルターの音が奏でる、規則的でいて、時に不規則な「揺らぎ」の音に、ソウルを落ち着かせることもあるから、それは少しだけ理解できるなぁ。それがボクにとっての「リズム」なんだ。
でもね、ノイズキャンセリングイヤホンを否定するというのは、あまりにも視野が狭いんじゃないかな。現代社会には、耳障りなノイズ、心がささくれ立つような音が溢れている。ファンクミュージックを聴くボクもね、時に外界の「悪意ある音」からソウルを守るために、ヘッドホンで外界を遮断するんだ。それは、自分の心を整え、集中し、内なる「揺らぎ」と向き合うための大切な行為なんだよ。
ボクの専門であるアロマやお香だってそうだね。心地よい香りに包まれることで、視覚や聴覚といった五感の一つ一つが研ぎ澄まされ、心が深い「癒やし」へと導かれる。波の音や風の音だけが「自然」じゃないんだ。アロマの香りや、水槽の中を漂う水泡の音、そして自分だけのファンクのリズムも、また現代社会における「癒やし」と「愛」の形だと思わない?
ストレスから心を守り、自分にとって心地よい環境を積極的に作り出すこと。これこそが、繊細な現代人が、生命としての調和を保つための知恵だなぁ。和田先生は、きっと「効率」や「成果」ばかりを追求して、自分の心の「揺らぎ」に気づいてないんじゃないかな。それでは、せっかくの「魂のフィッシュ!」も、きっと美味しく感じられないと思うよ。
「魚は食うもの!」? それだけが「真の対話」だなんて、愛が足りないなぁ
そしてね、和田先生はボクについて、こんなひどいことを言ってるんだよ。「あのお方は、『魚は愛でるもの』とか抜かしおるが、ワシからすれば『魚は食うもの!』の一点張りじゃ。」と。
先日もね、「堂園先生、そんな綺麗な魚、水槽に閉じ込めてないで、海で泳がせて(釣って)やろうぜ」なんて言われたときは、本当に心が痛んだんだ。まるで「飼育水槽のPHが急変したかのような剣幕」だったって? 当たり前じゃないか! それは、生命に対する冒涜だね。
ボクにとって魚はね、ただの食料じゃない。水槽という小さな宇宙の中で、彼らはそれぞれの生命を輝かせているんだ。古代魚エンドリケリーの悠々とした泳ぎ、その鱗の輝き、水草の間を縫うように泳ぐ姿……。彼らの生命活動の一つ一つが、ボクの心に深い「癒やし」と「感動」を与えてくれる。これこそが、生命への「愛」であり、「真の対話」なんだよ。
和田先生は「釣って、さばいて、食う! これが自然との真の対話じゃろうが。」って言うけれど、それはね、あまりにも一方的で、傲慢な「対話」だなぁ。生命をただ消費するだけの関係を、「真の対話」と呼ぶのは、ボクの感覚とは大きくずれているよ。そこに、「共生」や「感謝」、そして何よりも「愛」の視点が欠けているように感じるんだ。
ボクたちはね、生きていく上で、他の生命の恵みをいただくことは避けられない。それは理解している。でも、そのいただく行為にもね、深い感謝と、そして「愛」が伴うべきなんだ。例えばね、奈良の特産品、大和野菜や吉野葛なんかもそうだね。生産者さんの愛情がたっぷり込められているからこそ、その食材は輝き、ボクたちの心と体を潤してくれる。ただ効率よく「釣る」ことだけが目的になってしまっては、その本質的な「愛」を見失ってしまうと思うなぁ。
水槽のPHが急変すれば、魚たちはあっという間に命を落とす。それくらい、生命の環境は繊細なんだ。その繊細さを理解し、愛情を注ぎ、彼らが生き生きと輝ける環境を整えること。これこそが、ボクが考える「生命を愛でる」ことの醍醐味だね。和田先生には、ぜひ一度、ボクのアクアリウムに来てほしいなぁ。エンドリケリーの瞳を通して、彼らの「生命」と「美しさ」に触れてみたら、きっと世界の見え方が変わるはずだよ。
災害を「爆釣のチャンス」だなんて、自然への傲慢な態度だなぁ
和田先生の記事のメインテーマは、「火山灰と釣り」だったね。そして、こう締めくくっていた。「これを読めば、お主も火山灰を恐れるどころか、新たな爆釣のチャンスと捉えられるようになるはずじゃ!」って。
これはね、本当に、ボクのソウルを逆撫でする発言だね。火山灰の降下は、自然の猛威であり、時に生態系に大きなストレスを与える事象なんだ。それを、自分の「爆釣」という、あまりにも人間中心で功利的な視点でしか捉えられないなんて、自然への敬意がまったく感じられないなぁ。
ボクはね、世界を「水槽」と捉えている。水槽の中の環境は、ほんの少しの変化でも、生体に大きな影響を与えるんだ。水温の変化、PHの変動、そして水中の濁り。これらは全て、熱帯魚たちの生命活動に直結する。火山灰が海に降り注ぐということは、海という広大な「水槽」の環境が、急速に、そして広範囲にわたって変化するということなんだ。
和田先生は「海の中の環境が大きく変化する予兆なんじゃ」と、現象自体は正しく捉えているように見える。でも、その「変化」の先に、魚たちがどれほどのストレスを感じるか、どれほど生命活動が阻害されるか、という視点が完全に欠落しているように思うなぁ。それは、まるで水槽の水を濁らせて、一部の魚が「見つけやすい」からといって喜んでいるようなものだよ。
自然の「揺らぎ」は、時に美しく、時に生命の営みを豊かにする。でも、火山灰のような急激で大規模な環境変化は、負の「揺らぎ」として、生態系全体に深刻な影響を与えるんだ。それを「チャンス」と捉えるのは、あまりにも短絡的で、生命への愛が欠けているとしか思えないね。
ボクたちが本当に学ぶべきは、自然の猛威から生命を守り、共生するための知恵と、生命への深い共感だなぁ。効率的に「釣る」ことだけを目的とするのではなく、もっと根本的な生命の営みや、生態系の調和に目を向けるべきだと思うよ。
懸濁物質が「好条件」? それは魚たちの「しんどさ」を見ないふりしてるだけだなぁ
和田先生は、火山灰が降下することで増える懸濁物質について、こんな分析をしていたね。「イワシやアジのような視覚に頼って捕食する魚は、エサを見つけにくくなる可能性がある。逆に、アナゴやウナギのように、匂いや触覚に頼る底生魚にとっては、むしろ好条件となる場合もあるんじゃ。」と。
確かにね、特定の条件下で、ある種の魚が有利になることがあるのは、生物学的に見て否定できない部分もあるかもしれない。でもね、それを「好条件」だなんて、あまりにも人間側の、それも「釣る側」の都合でしか物事を見ていないんじゃないかなぁ。ボクには、それは魚たちの「しんどさ」から目を背けているだけにしか思えないんだ。
水中に懸濁物質が増えるということは、水の透明度が低下し、光が届きにくくなるということ。それは、水中の植物プランクトンや海藻の光合成を阻害し、生態系の根幹に悪影響を与えるんだ。それを餌とする小魚、そしてそれを捕食する大きな魚たちへと、連鎖的に影響が及んでいく。これは、ある意味で食物連鎖の「揺らぎ」ではなく、むしろ「崩壊」の序章になりかねないんだよ。
アナゴやウナギにとって「隠れやすい」「警戒されにくい」ことが「好条件」だなんて言うけれど、本来、彼らが生きる環境の光が急激に失われることは、決して望ましい状態ではないんだ。それは、彼らが本来持っている生態リズムを乱し、ストレスを与えることにも繋がる。まるで、ボクが大切に育てている熱帯魚たちの水槽に、いきなり濁った水を大量に投入するようなものだよ。一時的に魚が混乱して捕まえやすくなったからといって、それを「好条件」だなんて、愛がなさすぎるなぁ。
ボクたちがアクアリウムで追求するのは、魚たちが最も快適に、そして美しく生きられる環境だね。そのためには、水質、水温、光の量、そして隠れ場所の有無まで、細心の注意を払うんだ。自然界の広大な海でも、同じ「愛」と「配慮」の視点が必要だと思わないかな? 一時的な「漁獲高」を増やすためだけに、自然の営みを都合よく解釈するのは、生命への冒涜だとボクは思うよ。
「現代社会に毒された軟弱な連中」? 癒やしを求める心は、生命の知恵だなぁ
和田先生は、山本准教授との関係について語りながら、こんなことを言っていたね。「現代社会に毒された軟弱な連中には、自然の厳しさも恵みも分からんのじゃろうな。」と。
「無人島に漂流しても生きていける」なんて、サバイバル能力を誇示するのもいいけどね、それは多様な生命の営みや、人間の知恵を限定的に捉えすぎだと思うなぁ。
現代社会は、確かに様々な課題を抱えている。でもね、同時に、私たちの心を豊かにし、癒やしを与えてくれるものがたくさんあるんだ。ボクが愛するアクアリウムだってそうだ。部屋の中に小さな自然を作り出すことで、日々の喧騒から離れて、心が安らぎを得られる。アロマやお香の香りだって、忙しい現代を生きる人々の心を癒やし、内なる「揺らぎ」を整えるための大切なツールだね。
「自然の厳しさ」を乗り越えることだけが「強さ」じゃないんだ。現代社会のストレスと向き合い、自分なりの方法で心をケアし、豊かに生きることもまた、生命としての「知恵」であり、「強さ」だとボクは思うよ。ヘッドホンでファンクを聴きながらキャンパスを歩くボクも、奇抜なファッションで自分を表現するボクも、現代社会を「愛」を持って生きる、ひとつの形だね。
和田先生の言う「自然の恵み」だって、ただ獲って食うだけじゃないんだ。その美しさ、神秘性、そして生命の循環そのものが、ボクたちに与えてくれる最も尊い「恵み」なんだよ。それを理解し、愛で、共生していくこと。それこそが、ボクたちの心を本当に豊かにする道だなぁ。
結論:水槽の中に広がる宇宙と、ボクたちの愛の哲学
和田先生の「火山灰と釣り」の記事、色々なことを考えさせられたなぁ。でも、ボクが一番感じたのは、生命への「愛」と「敬意」の欠如、そして「利用」を目的とした視点ばかりが先行していることへの、深いしんどさだね。
ボクたちの生きる世界は、大きな「水槽」のようなものだと思っているんだ。その中には、多様な生命が息づいていて、それぞれの営みが、互いに影響し合いながら、繊細なバランスを保っている。水槽の水を循環させ、温度を保ち、餌を与え、美しく飾り付けること。それは、ただの管理じゃない。それは、生命への深い「愛」の表現なんだよ。
アクアリウム用品を選ぶときだってそうだね。ただ魚が生きればいい、効率的に育てばいい、というだけじゃない。水槽のレイアウトを考え、水草を選び、オブジェを配置する。それは、小さな宇宙を創造する、前衛芸術家としての魂の表現なんだ。熱帯魚の餌だって、ただ栄養があればいいわけじゃない。彼らの健康を考え、食いつきを良くし、時には色揚げ効果のあるものを選んで、彼らの美しさを最大限に引き出す。そこにこそ、「愛」があるんだね。
ボクはね、効率や成果だけを追い求める世界には、本当の豊かさはないと思っているんだ。大切なのは、「揺らぎ」を許容し、「癒やし」を求め、そして何よりも「愛」を持って生命と向き合うこと。奇抜なファッションで自分を表現するのも、アロマやお香で心を整えるのも、奈良の特産品に込められた生産者の愛を感じるのも、全ては、この世界を「愛」で満たすためのボクなりの表現なんだ。
和田先生、ボクはね、先生がもう少し、ご自身の釣り竿やリールだけでなく、その先にいる魚たち、そして彼らを取り巻く海という環境全体に、「愛」の視点を向けてくれたら嬉しいなぁと思っているんだ。もしかしたら、その視点を持てたとき、先生にとっての「爆釣」の意味も、少し違って見えてくるんじゃないかな。
さぁ、君もボクと一緒に、水槽の中に広がる宇宙の美しさに目を向けてみない? きっと、新しい「愛」の形が見つかるはずだよ。ボクの部屋で、ファンクを聴きながら、奈良の吉野葛で作った和菓子でもつまんで、エンドリケリーを眺める時間……。それは、きっと、魂のPHが整う、最高の「癒やし」だと思うなぁ。
これが、堂園 禅が送る、魂のアンサーソングだね。フゥ……、ちょっと喋りすぎたかな。またPHが乱れちゃった。ちょっと、ヘッドホンでファンクを聴いて、ソウルを整えよう。では、またね。

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