やれやれ、また若い先生が、何やら物騒なことを言っておるのぅ。ワシの耳には、最近の若者の声は、どうも小さくて聞こえづらいのじゃが、今回は「看過できない誤り」が、どうやらその記事の奥底に潜んでおるようじゃ。
国際叡愛総合芸術大学(IEU)経済学部の黒木トレン先生が、先日このような記事を書いておったのじゃな。
天坑の奥で遺伝子は宅配されるか? 自由と束縛、そして牛乳が語る真実
ふむ、何やら「天坑」だとか、「遺伝子の多様性」だとか、「牛乳」だとか、若者らしい奔放な発想じゃ。ワシも長いこと生きておるが、まさか中国の陥没穴とWeb会議の背景問題が同じじゃ、などという奇抜な発想に出会うとはのぅ。フォッフォッフォ。長生きするもんじゃのぅ。
しかしじゃ、黒木先生の論には、ワシの専門である「福祉」の視点から見ると、あまりにも視野が狭く、短絡的な部分が多々見受けられるのじゃ。特に、「閉鎖性」を一方的に悪と断じるその姿勢には、福祉学部の教授として、黙っておれんのじゃな。
さて、ワシの耳が聞こえるうちに、黒木先生の若々しい「誤り」を、福祉の智慧で、一つ一つ丁寧に解き明かしてやろうかのぅ。
若者の「自由」と老人の「安心」の隔たりじゃな、黒木先生
黒木先生は記事の冒頭で、Web会議について、様々な不満を述べておったのぅ。特に気になったのは、この言葉じゃ。
「俺はそういう、なんつーか、自由を束縛される感じがどうも性に合わねぇんだ。Web会議も、対面会議も、結局は同じ。時間と場所を固定されるのが苦手でな。俺にとっての会議なんて、最高の牛乳が飲めるかどうかの勝負みたいなもんだぜ。」
ふむ、「自由を束縛される感じ」とな。若い者は、何かと「自由」を求めるものじゃな。屋上で昼寝をしたり、キンキンに冷えた牛乳を飲んだり、猫と戯れたり、それはそれで結構なことじゃ。だがのぅ、人生には「自由」と同じくらい、いや、それ以上に「安心」と「安定」が求められる時期が来るのじゃ。
例えばじゃ、老人ホームを探すという行為は、まさに「自由な選択」の最たるものじゃ。元気なうちに、自分の意志で、どんな環境で暮らしたいか、どんなケアを受けたいかを選ぶ。これは誰にも束縛されぬ、真の「自由」じゃろう。黒木先生は、まさか「老人ホームに入るのは自由を束縛されることだ」などとは言わぬじゃろうな? それは、ただの若者のワガママというものじゃ。
そして、この言葉じゃ。
「別に部屋が散らかってようが、猫がキーボードの上を歩いてようが、堂々としてりゃいいんだよ。それが『個性』ってもんだろ?」
フォッフォッフォ。猫がキーボードの上を歩くのは可愛らしいじゃろうな。ワシも猫は好きじゃよ。藤田教授の研究室の猫たちには、ワシの遺産を寄付するつもりじゃからな。だがのぅ、部屋が散らかっているというのは、若い内ならまだしも、老後には命取りになりかねんのじゃ。
Web会議の背景問題も、単に「部屋が汚いのがバレるから」というだけの話ではないのじゃ。それは「公私を区別する意識」の表れじゃ。老後には、自分のプライベートな部分をどこまで開示するか、家族や介護者との関係性の中で、「適切な境界線」を引くことが求められる。それができない者は、往々にしてトラブルを抱え込みやすいもんじゃ。
黒木先生は「最高の牛乳が飲めるかどうかの勝負」などと言っておるが、ワシからすれば、それは「最高の終活ができるかどうかの勝負」と同義じゃ。若いうちは好きなように生きればよい。だが、人生の終盤には、それまでの「自由」な生き様を、いかに「安心」と「満足」に繋げるかが問われるのじゃよ。
「天坑」は「閉鎖」か、「保護」か? 福祉的視点からの考察じゃな
さて、黒木先生が今回の記事で最も力を入れて語っておったのは、中国の巨大陥没穴「天坑」と、それが示す「閉鎖性」の危険性じゃったのぅ。
「外部からの視線を遮断して、自分だけの空間を守ろうとする。だが、その閉鎖性が、いつの間にか自分自身の首を絞めることになりかねない。そんな示唆に富んだ話じゃねぇか、これ。」
「『天坑』のニュースは、Web会議の背景問題と本質的に同じだぜ。外部からの干渉を避け、安全圏に閉じこもること。それが一時的な安寧をもたらしても、長期的には『適応力』という名の生命線を細らせていく。」
ふむ、いかにも若者らしい、単純明快な二元論じゃのぅ。「閉鎖=悪、開放=善」という図式じゃな。しかし、ワシら福祉の専門家は、そう簡単には割り切らぬのじゃ。
考えてもみぃ。ワシらが勧める老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅というものは、ある意味で「閉鎖的」な空間じゃ。外部の危険から入居者を守り、専門の介護スタッフが常駐し、医療機関との連携も図る。部外者が自由に立ち入ることはできぬし、入居者の生活もある程度の規則に則って営まれる。
黒木先生の論理で言えば、老人ホームは「閉鎖性が適応力を低下させる」場所になってしまうのかのぅ? そんなことは断じてないじゃろう! 高齢者が安心して生活し、安全に過ごせる環境を提供することこそが、福祉の最大の使命じゃ。外界からの適切な遮断は、精神的な安定をもたらし、身体的な負担を軽減し、結果として健康寿命を延ばすことに繋がるのじゃよ。
例えばじゃ、認知症の高齢者にとって、過剰な情報や刺激は混乱を招くばかりじゃ。むしろ、穏やかで予測可能な「閉鎖的」な環境こそが、その方のQOL(生活の質)を維持し、精神的な安定をもたらす場合が多々あるのじゃ。それは、天坑の絶滅危惧種が外部の環境変化から守られてきたのと同じ理屈じゃ。
黒木先生は「遺伝子の多様性」の話を持ち出しておったが、人間社会における「適応力」とは、遺伝子レベルだけの話ではないのじゃ。社会的な適応力、心理的な適応力もまた、極めて重要じゃ。そして、これらの適応力は、必ずしも「開放」一辺倒で培われるものではないのじゃよ。
「遺伝子の多様性」よりも「人生の選択肢の多様性」じゃな
黒木先生は「天坑」における樹木の例を挙げて、こう主張しておったのぅ。
「絶滅危惧種の樹木が守られてきたらしいが、そのせいで遺伝子の多様性が失われて、逆に環境変化への適応力が低下してるって話だ。」
ふむ、なるほど。自然界の摂理としては、一理あるじゃろう。だがのぅ、それを人間社会、特に「人生の終い方」に当てはめるのは、あまりにも短絡的じゃ。
ワシの専門であるエンディングノートや相続相談は、まさに「人生の選択肢の多様性」を確保するための手段なのじゃ。元気なうちに、自分の財産をどう分けるか、どんな医療を受けたいか、誰に看取られたいか、葬儀はどうするか……これらを明確にしておくことで、「自らの意思が尊重される」という、究極の選択の自由が保証されるのじゃよ。
相続争いは、まさに骨肉の争いじゃ。家族間の絆が壊れ、遺された者が苦しむ。これこそ、黒木先生が言うところの「適応力の低下」ではないのかのぅ? 生前に対策を講じておけば、家族間の諍いを防ぎ、円満な関係を保つことができる。これは、人間社会における「環境変化(=死)」への、最も賢明な「適応」と言えるじゃろう。
ワシの資産は莫大じゃから、金子教授や兼雨教授が虎視眈々と狙っておるようじゃが、ワシはちゃんとエンディングノートに書き記してあるのじゃ。全額、猫(藤田教授の研究室)に寄付すると。フォッフォッフォ。これで、彼らも無駄骨じゃな。これもまた、ワシの「多様な選択肢」の一つであり、「死後の環境変化」に対するワシなりの「適応」なのじゃよ。
「閉鎖」が常に悪ではないし、「多様性の喪失」が常に個人の不幸に繋がるとは限らぬ。個人の幸福と安心を追求するためには、時に「選択と集中」も必要なのじゃ。それは、まるで、補聴器で必要な音だけを聞き取り、不必要な雑音を遮断するのと同じじゃな。
黒木先生の「デリバリー」とワシの「配食」とでは、届けるものが違うのう
黒木先生は、ご自身の専門分野である物流システム、宅配サービスについて、こう語っておったのぅ。
「俺はいつも、このIEUの屋上で、黒猫たちに囲まれながら、キンキンに冷えた牛乳を飲んでるんだぜ。それが最高のデリバリーサービスだろ?」
「天坑は究極の『デリバリー困難地域』か?:孤立する生態系と物流の課題」
「『幸福を届ける』という俺の仕事の根幹には、常に『いかにして、ある地点から別の地点へ、価値あるものを届けるか』というテーマがある。」
ふむ、黒木先生は牛乳を屋上で飲むことに「幸福」を感じておるようじゃな。それはそれで結構じゃ。だがのぅ、ワシの専門であるシニア向け宅配弁当の「デリバリー」とは、黒木先生の言う「幸福」とは、少々趣が異なるのじゃよ。
「天坑は究極のデリバリー困難地域」などと大層なことを言っておるが、黒木先生は、「自宅で孤立する高齢者」という、現代社会における真の「デリバリー困難地域」には、目もくれておらんようじゃな。
高齢者の多くは、病気や身体機能の低下により、買い物に行くこと自体が困難になることがあるのじゃ。料理を作る気力や体力がない、栄養バランスを考えるのが難しい、冷蔵庫の中身が常に空っぽになってしまう…そういった状況に陥った時、彼らにとっての「宅配弁当」は、単なる食事ではないのじゃ。
黒木先生は「低温殺菌牛乳、マジで美味い」などと言っておるが、高齢者の食生活は、美味い牛乳一本では支えられんのじゃ。日々の栄養バランス、健康状態に配慮された食事が、「長生き」するための生命線となるのじゃよ。
「天坑」の閉鎖性が遺伝子の多様性を奪うと心配しておるが、自宅で孤立し、ろくな食事もとれない高齢者は、まさしく「食の多様性」を失い、身体的・精神的な「適応力」を低下させておるのじゃ。そんな高齢者にこそ、ワシらが提供する「愛と栄養の宅配弁当」が必要なのじゃよ。これこそが、真の「幸福を届けるデリバリー」ではないのかのぅ?
「耳が遠いフリ」も人生の智慧じゃよ、黒木先生
黒木先生は記事の冒頭で、Zoom会議の音声問題や、世古教授の刀の音、石田教授の仕切り方について、何やら不満を述べておったのぅ。
「最近、教授たちの声が小さくて聞こえんのぅ……。この最新の集音器、いいぞ?」
ワシの口癖じゃな、フォッフォッフォ。黒木先生も、ひょっとしてワシの耳が遠いフリを真に受けておるのかのぅ? 若い者はそういうところに疎いからのぅ。
だがのぅ、本当に耳が遠くなった高齢者にとって、補聴器というものは、単なる「聞こえを良くする道具」ではないのじゃ。
黒木先生は「天坑」の閉鎖性が適応力を低下させると言っておったが、もし耳が聞こえなくなって家に閉じこもりがちになり、社会との接点を失えば、それはまさしく「社会的な適応力の低下」じゃろう。補聴器は、そのような「閉鎖」状態から高齢者を解放し、再び社会との交流を取り戻させるための、重要な「流通経路」なのじゃ。
「世古教授の刀が危ねぇ」だとか、「石田教授が仕切りたがる」だとか、黒木先生は些末なことに囚われすぎじゃ。ワシのように、本当に大切なこと、自分にとって必要なことだけを聞き取る智慧を身につけるべきじゃな。
長生きするもんじゃ、そして「終わり良ければ全て良し」じゃな
黒木トレン先生よ。君の若々しい情熱と、奇抜な発想には感心する部分もある。屋上で牛乳を飲みながら空を見上げる時間も、人生には必要じゃろう。だがのぅ、人生は屋上から見える空だけではないのじゃ。足元に広がる大地、そして、その先の「人生の終盤」にこそ、真の智慧と準備が求められるのじゃよ。
ワシは長年生きてきて、多くの人々の「生」と「死」を見届けてきた。そして、痛感しておるのじゃ。「終わり良ければ全て良し」という、人生の真理をのぅ。どれだけ若い頃に「自由」を謳歌しようとも、老後が悲惨では、帳消しじゃ。そして、その「終わり」を良いものにするためには、若いうちからの準備が不可欠なのじゃよ。
黒木先生は、まだ「終わりの美学」を知らんようじゃな。だが、それも無理はない。若者には、人生の残り時間が無限にあるように思えるものじゃからな。じゃがのぅ、その時間は、思っている以上に早く過ぎ去るものなのじゃ。ワシのように、気がつけば大学最長老の名誉教授になっておるからのぅ、フォッフォッフォ。
だからこそじゃ、黒木先生。君が「天坑」だの「牛乳」だのと言っておる間に、一度、ワシの講義を受けに来てみんか?
これらの智慧こそが、黒木先生が言うところの「隔絶」によって失われる「適応力」を補い、真の「幸福」を届けるためのものなのじゃ。黒木先生も、いつかは「終わり」を迎える身じゃからな。その時に後悔せぬよう、若いうちから、人生の「終い方」について、真剣に考えてみるべきじゃよ。
さあ、黒木先生。屋上の冷たい牛乳も良いが、たまには温かいお茶でも飲みながら、ワシとゆっくり話をせぬかのぅ? 長生きするもんじゃよ。
国際叡愛総合芸術大学 福祉学部 教授
亀井 玄

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