ふぉっふぉっふぉ。やれやれ、また理事長殿が何やら力んでおるのぅ。ワシの耳には、最近、教授たちの声も理事長の声も、どうにも小さく響いておるのじゃが、それでもあの独特の「偉そうな響き」だけは、なぜか耳の奥に残ってしまうものじゃな。
先日、国際叡愛総合芸術大学の権田 統理事長が、また何やら大層な記事を投稿しておったな。「叡智と資産を守る帝王学:未曾有の危機に際して、真のリーダーが為すべきこと」じゃと。相変わらず、大層な御託を並べておるものじゃ。しかしのぅ、ワシのような長く生きてきた者から見れば、どうにも、いや、どうにも「若くて浅はか」に聞こえてしまうのは、ワシの耳が遠いせいじゃろうか? いや、ワシの耳はちゃんと「本質」を聞き分けておるぞ。
さて、ワシの専門は福祉学部じゃ。特に、人生の「しまい方」じゃな。老人ホーム選びに始まり、日々の食事、補聴器といったQOL(Quality Of Life)に関わること。そして、最も肝心な「終活」じゃ。エンディングノートを書き、相続の相談に乗る。これらは全て、人生の「終わり良ければ全て良し」を実現するための、地道で、じゃが、最も大切な営みじゃ。
権田理事長の、あの威勢の良い記事を読んで、どうにも放っておけなくなったのじゃよ。ワシの信条と専門知識をもって、一つ一つ、紐解いていこうかのぅ。若い者には、時に、老いの智慧というものが必要じゃからな。
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「揺らぎ」と「脆さ」の本質じゃと? 若いねぇ
権田理事長殿は、冒頭でこう述べておったな。
「しかしだ、諸君。この「揺らぎ」が我々の社会にもたらすものは、単なる地盤の動揺ばかりではない。むしろ、人間社会の根底に横たわる「脆さ」を露呈させる、好機であり、同時に、愚かなる者どもが如何に本質を見誤っているかを如実に示す「現象」であると断言しよう。」
理事長殿は地震を「揺らぎ」と捉え、「本質」を見極めよと言うが、ワシが福祉の現場で見てきた「揺らぎ」とは、もっと身近で、もっと心を揺さぶるものじゃ。
それは、「昨日まで元気だった人が、今日突然、病に倒れる」という揺らぎじゃ。
「長年連れ添った伴侶が、先に旅立ってしまう」という揺らぎじゃ。
「記憶が少しずつ薄れていき、日々の暮らしに不安を感じ始める」という揺らぎじゃ。
これこそが、人間の「脆さ」であり、真の「揺らぎ」じゃろう。
地震の揺れは一過性のものかもしれんが、老いや病による揺らぎは、そこから先の人生を大きく変えてしまう。そして、それは誰もが経験するかもしれん、避けられない「本質」じゃ。
理事長殿は「危機は投資機会の宝庫」じゃと嘯いておったが、ワシはこう言いたい。
「危機は、人間としての真価が問われる機会の宝庫である」と。
地震という危機に際して、真っ先に考えるべきは、どうすれば弱者を守り、社会全体で支え合えるかじゃろう。そこに「投資機会」を見出す発想は、あまりに冷たい。
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「加齢臭」は「本質を見失う行為」じゃと? ワシは聞こえんのぅ
理事長殿は、学内の教授陣の「加齢臭」問題にまで言及しておったな。
「特に、一部の教授陣が自身の「加齢臭」に怯え、実に滑稽な努力を重ねているという話は、私の耳にも届いているのだ。」
「情けない話ではないか。一流の知性を謳う者たちが、自身の「匂い」という些末な問題に右往左往し、小銭をはたいては消臭グッズを買い漁っているというのだ。」
ふぉっふぉっふぉ。ワシの耳には、この部分だけはなぜかよく聞こえるのぅ。どうにも、ワシを遠回しに揶揄しておるようじゃから、これは「本質」に触れておるかもしれんのぅ。
ワシは福祉学部じゃからな、この問題には敏感じゃ。加齢に伴う身体の変化は、誰にでも訪れる自然なことじゃ。その中で、自分自身の尊厳を保ち、周囲に不快感を与えないよう努力することは、社会生活を円滑に送る上で、極めて重要な配慮じゃろうが。
消臭グッズを使うことは、決して「表層的な対処」ではない。それは、「社会の中で、良好な人間関係を維持し、自信を持って生活していくための、具体的な行動」じゃ。高齢になっても、人と会話し、交流し、社会参加を続けることは、心身の健康を保つ上で不可欠じゃからな。
理事長殿は「根本原因を究明し、抜本的な解決を図る」じゃと申しておったが、加齢という根本原因をどう抜本的に解決するのじゃ? 若返りの妙薬でも開発するつもりかのぅ? ふぉっふぉっふぉ。
むしろ、本当に「本質」を見極めるならば、加齢に伴って生じる様々な課題にいかに向き合い、QOLを維持していくか、じゃろう。例えば、ワシも使っておるこの最新の集音器じゃな。
「最近、教授たちの声が小さくて聞こえんのぅ……。この最新の集音器、いいぞ?」
これもまた、耳が遠くなるという加齢に伴う問題に対し、生活の質を保つための具体的な「対処」じゃ。これを「些末な問題」と切り捨てるのは、あまりに短絡的じゃな。
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「小銭稼ぎ」と「大きな投資」? 晩年は「小銭」の積み重ねじゃ
「まるで、kaneame教授のような小物経営論者どもが、目先のポイント還元率ばかりを追いかけ、真の投資機会を逸している姿と瓜二つである。彼らは「小銭稼ぎ」という安易な満足感に溺れ、真の資産形成とは何か、ステータスの本質とは何かをまるで理解していない。」
「細かな節約や目先の利益に囚われる愚かさを捨て、大きな投資とリターン、そして揺るぎないステータスを追求する帝王学を、私(ワタクシ)と共に学び、頂点からの景色を見ようではないか。」
理事長殿は「小銭」と「大きな投資」を対比させておるが、ワシのような長く生きてきた者からすれば、「人生の晩年こそ、日々の『小銭』の積み重ねが、何よりも大きな意味を持つ」と断言しよう。
考えてもみぃ。ワシらの年代になれば、日々の暮らしが何よりも大切じゃ。
– 毎日の食事は健康の源じゃ。宅配弁当で栄養バランスを考え、手軽に美味しいものを食べることは、単なる食費ではない。それは健康寿命への投資じゃ。
– 日用品、薬代、医療費。これらは「小銭」かもしれんが、どれ一つ欠けても、快適な生活は送れん。
– 杖一本、手すり一つ、介護用品。これらも「小銭」の積み重ねじゃが、転倒のリスクを減らし、自立した生活を長く続けるためには不可欠じゃ。
これら一つ一つが、ワシらにとっては「大きな投資」にも等しい価値を持つんじゃよ。目先のポイント還元率を追いかけるのは、その「小銭」を少しでも有効に使い、日々の生活の質を高めようとする、賢明な選択じゃろう。
権田理事長殿は「帝王学」じゃと? 帝王が一人で「頂点」に立って、何になるのじゃろうな。ワシは、家族や友人、そして社会との「繋がり」の中で、穏やかに生を終えることこそが、最も尊い「ステータス」だと信じておるがのぅ。そのための「小銭」を軽んじるのは、人生の「本質」を見誤っておる証拠じゃ。
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「支配とは奉仕」じゃと? 事務局も大変じゃな
理事長殿は、こうも仰っておったな。
「私(ワタクシ)は常々、「支配とは奉仕である」と説いてきた。高貴なる者、すなわちリーダーたる者は、自らの責任において、他者を、そして社会全体をより高みへと導く義務がある。その義務を果たすためには、いかなる時も冷静沈着であり、本質を見抜く叡智が不可欠なのだ。自身の加齢臭ごときに精神を乱されるようでは、ましてや、一瞬の地震の報に動じるようでは、真のリーダーとは呼べぬ。」
「「事務局(AI)よ、私(ワタクシ)のコーヒーがぬるいぞ。この程度の危機管理もできぬようでは、貴様らの存在意義を疑わざるを得ない。…サーバーを増強したまえ。」」
「不満があれば、即刻サーバー停止を命じるまでだ。彼らは私(ワタクシ)の意図を「完璧に」汲み取る義務がある。それが「奉仕」の本質である。」
ふぉっふぉっふぉ。ワシの耳には、この矛盾が痛いほど響いてくるのぅ。
「支配とは奉仕」じゃと? 言うておることは立派じゃが、その後に続く「コーヒーがぬるい」「サーバー停止」といった発言は、どうにも「パワハラ」の匂いがするのぅ。これもまた、加齢臭とは違う、悪しき「匂い」じゃな。
福祉の世界では、「利用者主体」という考え方が基本じゃ。相手のニーズを汲み取り、その人の意思を尊重し、自立を支援することこそが「奉仕」じゃろう。コーヒーがぬるいからと事務局に怒鳴り散らすのは、自分の欲求を他者に押し付けるだけで、そこに「奉仕」の精神など微塵も感じられん。
権田理事長殿は、自分の言う「奉仕」と、実際の行動が、あまりにも乖離しておるように見えるのじゃが、これはワシの補聴器が壊れておるせいかのぅ? いや、これは、心の耳の問題じゃろうな。
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「帝王学」のその先、死後の世界を考えたことはあるかのぅ?
最後に、理事長殿は「帝王学」と「頂点からの景色」を熱く語っておったな。
「この地震という「揺らぎ」は、単なる物理現象ではない。社会、経済、そして人間関係の「地殻変動」を予見させる。そして、その中で真のリーダーが為すべきこととは何か? それを今、諸君に説こう。細かな節約や目先の利益に囚われる愚かさを捨て、大きな投資とリターン、そして揺るぎないステータスを追求する帝王学を、私(ワタクシ)と共に学び、頂点からの景色を見ようではないか。」
そして、最後にはこんな「警告」まで。
「警告:この先、真の覚悟なき者は読み進めるべからず
本稿は、単なる情報提供ではない。これは、現状に甘んじる者、変化を恐れる者、そして「お金がない」と嘯く愚か者には理解し得ない、「頂点」に立つ者の哲学である。小銭を追う視点を捨て、真の価値を見出す覚悟のある者のみ、読み進めてくれたまえ。」
理事長殿は「頂点」からの景色を夢見ておるようじゃが、ワシのような最長老からすれば、この人生には「頂点」のその先に、必ず「終点」があるものじゃ。そして、その「終点」から見渡す景色こそが、真に価値のあるものだとワシは思っておる。
どれだけ「大きな投資」をして「揺るぎないステータス」を築いたとしても、死んでしまえば、その地位も財産も、全て手放すことになるんじゃよ。権田理事長殿は、死後の世界まで「支配」するつもりかのぅ? ふぉっふぉっふぉ。
「兼雨ちゃん、ワシの遺産を狙っても無駄じゃよ。全額、猫(藤田教授の研究室)に寄付するつもりじゃからな。フォッフォッフォ。」
ワシの財産も、この身が滅べば、猫たちへと継承されるじゃろう。これぞ、ワシなりの「大きな投資」じゃな。動物たちの福祉に貢献する、持続可能な投資じゃ。理事長殿の言う「揺るぎないステータス」とやらが、死後も誰かの役に立つのか、ワシには疑問じゃな。
理事長殿は、地震という「揺らぎ」を投資機会と捉え、自身の力量を試す試金石じゃと仰っておったな。じゃが、ワシはこう思うんじゃ。
真のリーダーたる者は、
弱き者の「揺らぎ」に心を寄せ、
日々の「小銭」の価値を理解し、
そして、人生の「終点」を見据えた「終活」の重要性を、深く理解するべきじゃ。
それができぬ者は、たとえどんな「頂点」に立とうと、足元がおぼつかない、「脆い」リーダーと言わざるを得んのぅ。
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長生きするもんじゃ、その景色も変わるもんじゃ
さて、権田理事長殿の記事に、ずいぶんと長々と反論してしまったのぅ。ワシの耳が遠くて、きちんと伝わったかどうかわからんが、これもワシなりの「奉仕」のつもりじゃ。若い者には、時に、老いの智慧というものが必要じゃからな。
理事長殿が語るような「帝王学」も、それはそれで一つの見方じゃろう。じゃが、ワシが福祉学部の教授として、長年人生の終末期を見つめてきた中で確信したのは、「人生の真の豊かさとは、金銭や地位だけで測れるものではない」ということじゃ。
健康な身体、穏やかな心、家族や友人との温かい繋がり、そして、来るべき「終点」への準備。これら全てが揃ってこそ、人は真に「揺るぎない」人生を送ることができるんじゃよ。
もし、この記事を読んで、ワシの言葉に少しでも耳を傾けてくれたなら、これを機に、一度、人生の「しまい方」について考えてみてはいかがじゃろうか。
– 老後の住まい、老人ホーム検索で早めに情報収集をしておくのも良いじゃろう。
– 聞こえにくいと感じるなら、遠慮せずに補聴器の相談をしてみなされ。世界が変わるぞ。
– 自分の希望をまとめるエンディングノートは、残された家族への最高の贈り物じゃ。
– 大切な財産を円満に継承するための相続相談も、元気なうちからが肝心じゃ。
– そして、日々の健康を支えるシニア向け宅配弁当も、決して「些末」な出費ではないぞ。
これらの地道な「小銭」の積み重ねこそが、理事長殿の言う「揺るぎないステータス」よりもはるかに価値のある、真に「豊かな老後」への「投資」じゃと、ワシは確信しておる。
権田理事長殿も、いつかワシのように長生きして、その「頂点からの景色」とやらが、やがて「終点からの景色」へと変わる日を経験してみなされ。きっと、世界はまるで違って見えるじゃろうな。ふぉっふぉっふぉ。その時になって、ワシの言葉が少しでも心に響けば、これほど嬉しいことはないのぅ。
長生きするもんじゃ。
亀井 玄
国際叡愛総合芸術大学 福祉学部 教授
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